えいあー

あまり面白みのない人生です。 記憶力がありませんので、小さい頃は他人から聞いた話を年表にしていたりします。

できごと 写真
2002年 4月 - 15歳
高校に入学 #   ★ 0
えいあー
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2000年 12月 - 13歳
彼女(という名の仲がいい女の子)が出来る。おそろいの指輪を買った。 #   ★ 0
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2000年 4月 - 13歳
長い付き合いになることになる(現在進行形)、私を妻よばわりする友人A♀と出会う。この子のおかげで、性格が完全に内向的から、すこし内向的に変わる。 #   ★ 0
えいあー 場所:教室
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1999年 4月 - 12歳
中学校に入学 #   ★ 0
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1998年 12月 26日 11歳
プレイステーションを買ってもらう。最初のゲームはエクソダスギルティーとアザーライフ アザードリームス。チョイスは一目ぼれ。 #   ★ 0
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1993年 12月 - 6歳
父が一人暮らしのころから住んでいたアパートから今の家に引っ越した。1Kから、5LDK+お店付きになる。 #   ★ 0
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1993年 4月 - 6歳
小学校に入学 #   ★ 0
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1991年 8月 1日 12歳
八月といえば夏。夏といえば海とプール。プールについては…この時点では正直なところ、あまり抵抗感はなかった。ただ、わりとぽっちゃり体型だったので胸に脂肪がついていて、それを見られるのが少しだけ恥ずかしかった。その他は男子の裸を見て、すごく興奮するというわけでもないので(今も視覚的な部分では興奮しないな)わりと普通にプールを楽しんだ。海は日焼けすると大変なことになるので(それこそ火傷並みに酷いことになる)あまり遊びには行かなかった。 #   ★ 0
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1991年 7月 31日 12歳
中学生になると、いろいろと深くなってくる。声だってそれまでのハイトーンボイス(ATDIのボーカル並み)で怪鳥ロプロスばりの超音波を出していたとしても、渋く深みのある声に…って、そこまではなっていないか。まぁ、いいや、今回は声変わりの話ではないので。閑話休題、本当にいろいろと深くなってくるわけで、脛毛に腕毛に腋毛(もちろんあそこの毛も)、さらにはギャランドゥ。そう、ギャランドゥ(=へそまわりの毛。ただしデタラメ英語)。脛毛と腕毛が濃くなり、腋毛が生えてきたのは嫌だったけど、まぁ、仕方ない。しかし、ギャランドゥが生えてきた時のショックはかなり大きかった。、私は剃ってしまう中一でギャランドゥは少々早すぎなのでは…このままでは胸毛もぼうぼうになりかねないではないか…と。そう思い悩んだあげく私はギャランドゥを含む全ての毛を剃る暴挙に。その結果“生えては剃る”というスパイラルに陥り、私の“体毛”との終わりなき戦いが始まるのであった。 #   ★ 0
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1991年 7月 15日 12歳
かなり消極的な理由で入部した剣道部での生活は…7月の時点ですでにかなり激しく後悔していた。当時、小デブだった私には激しい運動をするのが、すでに拷問だったわけだが、それに加えて防具の臭いとかが半端泣く臭いわけで…。そして何より打ちのめされたのが、運動神経が切れているのか全然上達しない、ということ。一緒に入部した女子(未経験)にも一度も勝てないくらい弱かった(試合稽古で泣かされたこともしばしば…って本当に情けないな、私)。と、こんな惨めな状況にもかかわらず、結局のところ卒業するまで剣道部に在籍することになる。(辞めなかった理由の一つが“剣道着をコスプレ感覚で着ていた”と言うのがある。袴ってちょっとスカートっぽいじゃん…) #   ★ 0
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1991年 7月 - 12歳
学校に着くまでに30分ほどかかるので、登下校用にカバンの中には常に漫画や小説が二、三冊入っており、友達に貸したりしていた。当時、私の周りでは久米田康治先生(現在“さよなら絶望先生”をマガジンにて連載中)の“ 行け!!南国アイスホッケー部”が流行り、一時期、友達との会話がほとんど下ネタで占められるようになる。まぁ、下ネタと言っても大人になった今からすると可愛らしいモノばかり。だって、あの坊ちゃん刈りのハナタレ小僧が、まさか“あんなこと”や“こんなこと”をするようになるとは。しかし“こんにゃくに切り目”とか“のびたカップブードル”とか…ほんと探究心ってすごいよね。 #   ★ 0
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1991年 6月 1日 12歳
六月に入り衣替えで夏服となる。うちの中学は男子はYシャツか開襟シャツ。学ランよりは好きだった。ちまに女子はブラウスにリボンにスカート。夏服がセーラー服じゃないのは非常に残念だ。まぁ、どちらにせよ私は着れないのだが…。余談だが、剣道の夏の地区大会で他校に出向いたとき、そこの女子の夏服がセーラー服で、あまりに可愛かったので凝視していまい、露骨に嫌な顔をされてたことが…あの時の冷たい女子の視線がいまだに忘れられない。いまさら言い訳しても仕方がないのだが、もしその凝視して嫌な顔をさせてしまった女子に伝えたいことがある。「決して君に対してエッチな妄想をしていたわけではないんだよ。その、君が着ているセーラー服が着たかっただけなんだ…」と。…もし、あの時にこの言い訳を口に出して言っていた場合(絶対にありえないけれど)、さらに冷たい視線(虫けらを見るがごとく)を浴びることになっていたと思う。 #   ★ 0
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1991年 6月 - 12歳
中学にはバスで通学していた。過疎化しているのでバスは一時間に一本。逃したら確実に遅刻という、かなりスリリングな環境のため、朝はバタバタすることが多く、一度寝癖を直さないで登校したらちびまる子ちゃんに出てくる“藤木くん(http://www.nippon-animation.co.jp/na/maruko/nakama/fujiki/index.htm)”みたいな髪型だったため、一時期あだ名が“フジキ”になったことも。それからはどんなに時間がなくても、寝癖だけは直すようになる。たとえ遅刻したとしても。 #   ★ 0
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1991年 6月 - 12歳
私の通っていた中学では、必ず何かの部活に所属しなければいけない学校だった。その頃の私は“運動が大の苦手”だったので(今だって得意ではない)、できることなら運動系はパスしたいところ。そこで文化系の部活を調べてみると“吹奏楽部”“科学部”という二択しかない状況らしいことがわかる。“吹奏楽部”は女の園だったので当時の私ではいささかハードルが高い。と、なると科学部しか残されていないのだが、どうやら“オタクの園”らしいという噂が…。当時すでに隠れアニオタだった私としては(アニメージュを小学5年生の時から購読)問題ないのだが、人の目を気にしてしまい断念。そうなると後は運動系しか残されていないわけで、選択肢としては“軟式テニス”“野球”“陸上”“剣道”の4つ。私は自慢ではないが、ボール扱わしたら右に出る者がいないほど下手(これはボール=自分自身の男性としての大切な丸い物体にたいするメタファー、として無意識下で捉えてしまうため、苦手意識を持ってしまうのが影響しているから…かもしれない)だ。なので“軟式テニス”“野球”はなし。そして、私は走るのも本当に嫌いだった(マラソン大会のたびに仮病使ってサボっていた)。と、なると、もう残っているのは“剣道”しかない。そして、私は意外と「時代劇」が好きだった。と、まぁ、いろいろあって“剣道部”に入部することになる。そのあとの地獄を知っていれば絶対入らなかったであろう“剣道部”に。 #   ★ 0
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1991年 5月 - 12歳
保育園児時代でのスイーツ依存症(おもにグリコ)の結果、小学生にして総入れ歯とう十字架を背負っていた私も小学校を卒業する頃には永久歯が生えてきて“総入れ歯”の十字架は降ろすことができた(部分的にはまだ入れ歯だったけれど)。だがしかし、そんな私に次なる試練が訪れる。長い総入れ歯生活、正直にいって小学生にして入れ歯はかなり面倒くさく、私はよく入れ歯をするのサボっていた(よく舌を使って入れ歯を外し、口の中で回していた。まぁ、そのおかげで舌使いのレベルは比較的高レベルに達することができたような気がしないでもないが…)。そのためにアゴが縮まってしまい、どうやっても全部の歯が生えそろわなくなってしまったのだ。結果何本かの永久歯を間引くことになり、さらには歯科衛生士の「お子さんのためを考えたら、歯の矯正を考えられた方が良いかもしれません、少し出っ歯気味ですし…」という口車に乗せられた母ナオコによって歯の矯正を受けることになった。私と歯医者との戦い、第二ラウンドの幕明けである。 #   ★ 0
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1991年 4月 21日 4歳
ふたりめの妹が生まれる。生まれてきてくれてありがとう。 #   ★ 0
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1991年 4月 - 12歳
中学に入って最初の危機は身体測定だった。理由はパンツ。「自分の下着姿を他の男の子の前で晒すなんて…恥ずかしい」と言うような乙女チックな理由…ではなく、「やばい…おれ、ブリーフしかもってない!」という理由で。だって、小学生まではブリーフだった同級生が、こぞってトランクス派に転向していたんですもん。その情報を身体測定前日に聞いた私は悩んだ。これから母ナオコに頼んだとしても、さすがに前日では無理だ。相談するのだって恥ずかしいので、できるなら自分1人で解決したい、と考えた私はならば!と言う事で父のトランクスを拝借することにした。柄は鯛柄で「大漁!」と書かれたトランクス。翌日からしばらくあだ名が「ガラパン」になった。 #   ★ 0
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1991年 3月 - 12歳
春から中学生なので、制服を買ってもらう。通う中学は学ランとセーラー服。もちろん学ランを購入。この時「あぁ、自分は変なんだ…」と確信する。なぜなら、断然セーラーの方を着たかったから。 #   ★ 0
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1991年 3月 - 12歳
小学校を卒業する。思い返せば、なにかと楽し…くはないな。やはりイジメのダメージは大きいし。ただ、まだ「男女」について、はっきりと意識していないので、その点では穏やかな生活だったのかもしれない(ミニ四駆作ったり、ガンプラ作ったり、と、まだまだ他の男の子との差も少なかったから。まぁ、ぬいぐるみを集めたりはしていたけれど)。その後に待っていた悶々とする日々に比べたら。 #   ★ 0
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1991年 1月 - 11歳
年を越して、また一つ年をとる。小学生でいるのもあと少し。この頃になると、イジメに対してはそんなに心が動かなくなった。それよりも日に日に自分は“ヘンタイ”なのではないだろうか、という悩みの方がどんどん大きくなっていった。 #   ★ 0
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1990年 12月 - 11歳
イジメの対象が私になった。回覧板みたいな感じで回ってくる。イジメっこが私のランドセルの中から母が私に秘密で入れていた小箱を見つけられ、その場で開けられる。中にはイジメに気がついていた母が私に向けた「がんばれ!がんばれ!負けるな!…」と言う励ましのメッセージ。それを音読される。素直になれないお年頃だったから家に帰り母にあたる。親の心、子知らず。今だったら…。人の想いは届くまでにずいぶんと時間がかかる場合もあるのだな、と思う。また、時間がかかってもきちんと届く場合があるのだな、とも思う。 #   ★ 0
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1990年 11月 - 11歳
水面下で繰り広げられるイジメの影響で、だんだんと人の顔色を伺う性格になり、わざとお調子者を演じるようになり、自分をあまり出さないようになり始める。性格的にはかなり卑屈。また、この頃から、もやもやとした違和感を感じるようになる。それがはっきりとしてくるのはもう少し後になってから。やっかいな皮膚病は…さらに悪化。 #   ★ 0
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1990年 10月 - 11歳
かなり危なっかしい小六生活の中で、私はわりとやっかいな皮膚病を患っていた。これは、当時の私がお風呂嫌いだったことが影響している。自分の身体を見るのが嫌で嫌でたまらなかったのだ。これは、成長するにつれて表面化していく私の心と身体の“くい違い”を意識させる“初まり”だったんだと思う。と、格好付けて書いてみても結局のところは“恥ずかしいところに水虫菌が繁殖!”ということなのでどんなにがんばってみても格好なんてつくはずがない。 #   ★ 0
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1990年 9月 - 11歳
往復ビンタのあと、クラスでのイジメは表面上はおさまったが、裏ではより陰湿なイジメが展開され始める。昨日までイジメる側にいた者が、今日はイジメられる側に。いつ自分が標的になるか、わからない状況。小学六年生でカツアゲ、万引き。体育館のステージの天井に登って床をぶち抜いて落ちかける。体育館のステージの床下で喫煙し、ぼや騒ぎをおこす、さらには体育館のステージの床下で…ここでは言えないような事までおこなう。「お前らは何故そんなに体育館のステージが好きなのか?」と聞きたくなるようなことを繰り返す。また、学校外では、橋の下に秘密基地(ここら辺は年相応)を作り活動。農家の者が自宅の農耕機用の軽油やガソリンを盗み、火炎瓶などを作ったり、原動機付き自転車を乗り回したりしていた。 #   ★ 0
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1990年 7月 - 3歳
エスカレーターでころぶ。母腕に妹。父両手に荷物。ころげる私。 #   ★ 0
えいあー 場所:デバート
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1990年 4月 - 11歳
先生を登校拒否に追い込んでしまったため危険クラスとみなされ、六年生の時は学校で一番厳しい先生が担任になる。それでもイジメはなくならず、ターゲットを変えて(今度は女の子だった)続いていたため、業を煮やした先生がクラスの男子全員をビンタすることになったのだが、私はビンタされる寸前、避けてしまい、結果一人だけ往復ビンタをもらうハメになった。まさに自業自得。避けてしまった理由はちょっとした反抗心「辛いのはその子だけじゃない。僕だって辛かったんだ」という気持ちがあったからだろう。そう思いながらビンタされた後、先生の顔を見たら泣いていた。殴られた方も痛いが、殴った方も痛い。身体も心も。さすがに「親父にもぶたれたことないのに」とは言えなかった。 #   ★ 0
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1990年 1月 - 10歳
年が明けてしばらくすると、誕生日がきて11歳になった。イジメの方は、対象が完全に他の子…というか先生に。二十代前半の女性で新婚ほやほや、目鼻立ちのしっかりとして日本人離れした顔を持ち、エキゾチックな雰囲気の美人だったのだけれども、そのせいで、小学生の容赦ない好奇心の餌食となり、フィリピーナとあだ名を付けられてカラかわれ、ノイローゼになり登校拒否に。そのまま春まで登校拒否が続いてしまい、そのまま違う学校に転勤されたらしい。 #   ★ 0
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1989年 12月 - 10歳
私に対するイジメは二学期末で少し落ち着いたが、相変わらず友達は少なく、本を読んで過ごすことが多かった。この年のクリスマスプレゼントに福永令三さんの「クレヨン王国のパトロール隊長」をもらったのを切っ掛けにクレヨン王国を読み始める。 #   ★ 0
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1989年 9月 - 10歳
二宮金次郎スタイルでの下校中、祖母と祖母の知り合いに遭遇。挨拶をしたら、その人は私に挨拶を返したあと、祖母に向かって「可愛らしいお孫さんですね、女の子?」と発言。それを受けて祖母が否定してくれるものと思って、祖母の顔を見るも「早く帰りなさい」と言われ、私はその場を離れることに。当時10歳の私は「えっ、僕って女の子に見えるの…」と悩み、その後の人生に大きく影を落とす事となった。 #   ★ 0
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1989年 6月 - 10歳
イジメの内容は鬼ごっこ。クラスメイトは男子が8人、女子が5人。その男子8人全員から無視され、休み時間になると、鬼ごっこ(鬼=私)が盛大に開催されていた。休み時間になるとまるで蜘蛛の子を散らすように居なくなっていく様を見続けていたら、追いかけるのが面倒になり、図書室で本を読んで過ごすようになる。よく学校の帰り道を本を読みながら歩いていたので、二宮金次郎みたいと言われる。 #   ★ 0
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