asami

手書きはローマ字オンリー。 アメリカナイズされた和風なオナゴ。

できごと 写真
1997年 - - 19歳
映画「タイタニック」で泣きすぎて腰が抜けた #   ★ 0
asami
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1996年 - - 18歳
すし屋でバイトを始めて生魚が再び食べられるようになる(86年の渡米以来たべられなくなっていた) #   ★ 0
asami 場所:マウンテンビュー
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1995年 6月 11日 17歳
高校卒業する筈だったが、なぜかホテルでベルガール #   ★ 0
asami 場所:熱海
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1995年 4月 - 17歳
6年続いた彼氏と付き合いはじめる #   ★ 0
asami
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1995年 4月 - 17歳
親戚一同にご挨拶。親父の大嘘に付き合わされる。 #   ★ 0
asami 場所:江戸川
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1995年 - - 17歳
バーボン飲んでたタンブラーごと人を殴って自分の手から出る血を部屋中にスプラッタさせる貴重な体験をする。 #   ★ 0
asami
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1995年 - - 16歳
高校中退、完全な引きこもり生活突入 #   ★ 0
hbkr
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1994年 12月 - 17歳
知人の家から自分の家まで帰るのに何故か彼氏とレースする羽目に。サニーVSプレリュードでまさかのプレリュード敗北。家の目の前で路上駐車の車に突進してしまった #   ★ 0
asami 場所:マウンテンビュー
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1994年 4月 - 15歳
福岡県立玄界高校入学 #   ★ 0
hbkr 場所:福岡
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1994年 - - 16歳
免許を取りに行く。審査のねーさんと大喧嘩して帰宅。 #   ★ 0
asami
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1994年 - - 16歳
BananaFishのAshに恋をする #   ★ 0
asami
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1993年 8月 - 15歳
警察官たちの目の前で玉突き事故をば。 無免許だがなんとか言い逃れられた。 #   ★ 0
asami 場所:スタンフォード
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1993年 - - 15歳
友達がプレステを借りたまま返してくれない人の住処に進入。 プレステを返してもらうついでにチリソースとナチョチーズを大量にぶちまけるのを手伝う。貴重な悪質イタズラ報復を経験。 #   ★ 0
asami
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1993年 - - 15歳
仮免取得。その日の夜中、サンフランシスコまでクルーズ。寝静まった頃ガレージから公道へ車を押して出す日々が始まる。 #   ★ 0
asami
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1992年 - - 14歳
一年程肉が食えなくなる。おにくキモイ病 #   ★ 0
asami
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1991年 8月 1日 12歳
八月といえば夏。夏といえば海とプール。プールについては…この時点では正直なところ、あまり抵抗感はなかった。ただ、わりとぽっちゃり体型だったので胸に脂肪がついていて、それを見られるのが少しだけ恥ずかしかった。その他は男子の裸を見て、すごく興奮するというわけでもないので(今も視覚的な部分では興奮しないな)わりと普通にプールを楽しんだ。海は日焼けすると大変なことになるので(それこそ火傷並みに酷いことになる)あまり遊びには行かなかった。 #   ★ 0
1co 場所:一番近いコンビニまで車で30分
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1991年 7月 31日 12歳
中学生になると、いろいろと深くなってくる。声だってそれまでのハイトーンボイス(ATDIのボーカル並み)で怪鳥ロプロスばりの超音波を出していたとしても、渋く深みのある声に…って、そこまではなっていないか。まぁ、いいや、今回は声変わりの話ではないので。閑話休題、本当にいろいろと深くなってくるわけで、脛毛に腕毛に腋毛(もちろんあそこの毛も)、さらにはギャランドゥ。そう、ギャランドゥ(=へそまわりの毛。ただしデタラメ英語)。脛毛と腕毛が濃くなり、腋毛が生えてきたのは嫌だったけど、まぁ、仕方ない。しかし、ギャランドゥが生えてきた時のショックはかなり大きかった。、私は剃ってしまう中一でギャランドゥは少々早すぎなのでは…このままでは胸毛もぼうぼうになりかねないではないか…と。そう思い悩んだあげく私はギャランドゥを含む全ての毛を剃る暴挙に。その結果“生えては剃る”というスパイラルに陥り、私の“体毛”との終わりなき戦いが始まるのであった。 #   ★ 0
1co 場所:一番近いコンビニまで車で30分
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1991年 7月 15日 12歳
かなり消極的な理由で入部した剣道部での生活は…7月の時点ですでにかなり激しく後悔していた。当時、小デブだった私には激しい運動をするのが、すでに拷問だったわけだが、それに加えて防具の臭いとかが半端泣く臭いわけで…。そして何より打ちのめされたのが、運動神経が切れているのか全然上達しない、ということ。一緒に入部した女子(未経験)にも一度も勝てないくらい弱かった(試合稽古で泣かされたこともしばしば…って本当に情けないな、私)。と、こんな惨めな状況にもかかわらず、結局のところ卒業するまで剣道部に在籍することになる。(辞めなかった理由の一つが“剣道着をコスプレ感覚で着ていた”と言うのがある。袴ってちょっとスカートっぽいじゃん…) #   ★ 0
1co 場所:一番近いコンビニまで車で30分
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1991年 7月 - 12歳
学校に着くまでに30分ほどかかるので、登下校用にカバンの中には常に漫画や小説が二、三冊入っており、友達に貸したりしていた。当時、私の周りでは久米田康治先生(現在“さよなら絶望先生”をマガジンにて連載中)の“ 行け!!南国アイスホッケー部”が流行り、一時期、友達との会話がほとんど下ネタで占められるようになる。まぁ、下ネタと言っても大人になった今からすると可愛らしいモノばかり。だって、あの坊ちゃん刈りのハナタレ小僧が、まさか“あんなこと”や“こんなこと”をするようになるとは。しかし“こんにゃくに切り目”とか“のびたカップブードル”とか…ほんと探究心ってすごいよね。 #   ★ 0
1co 場所:一番近いコンビニまで車で30分
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1991年 6月 1日 12歳
六月に入り衣替えで夏服となる。うちの中学は男子はYシャツか開襟シャツ。学ランよりは好きだった。ちまに女子はブラウスにリボンにスカート。夏服がセーラー服じゃないのは非常に残念だ。まぁ、どちらにせよ私は着れないのだが…。余談だが、剣道の夏の地区大会で他校に出向いたとき、そこの女子の夏服がセーラー服で、あまりに可愛かったので凝視していまい、露骨に嫌な顔をされてたことが…あの時の冷たい女子の視線がいまだに忘れられない。いまさら言い訳しても仕方がないのだが、もしその凝視して嫌な顔をさせてしまった女子に伝えたいことがある。「決して君に対してエッチな妄想をしていたわけではないんだよ。その、君が着ているセーラー服が着たかっただけなんだ…」と。…もし、あの時にこの言い訳を口に出して言っていた場合(絶対にありえないけれど)、さらに冷たい視線(虫けらを見るがごとく)を浴びることになっていたと思う。 #   ★ 0
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1991年 6月 - 12歳
中学にはバスで通学していた。過疎化しているのでバスは一時間に一本。逃したら確実に遅刻という、かなりスリリングな環境のため、朝はバタバタすることが多く、一度寝癖を直さないで登校したらちびまる子ちゃんに出てくる“藤木くん(http://www.nippon-animation.co.jp/na/maruko/nakama/fujiki/index.htm)”みたいな髪型だったため、一時期あだ名が“フジキ”になったことも。それからはどんなに時間がなくても、寝癖だけは直すようになる。たとえ遅刻したとしても。 #   ★ 0
1co 場所:一番近いコンビニまで車で30分
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1991年 6月 - 12歳
私の通っていた中学では、必ず何かの部活に所属しなければいけない学校だった。その頃の私は“運動が大の苦手”だったので(今だって得意ではない)、できることなら運動系はパスしたいところ。そこで文化系の部活を調べてみると“吹奏楽部”“科学部”という二択しかない状況らしいことがわかる。“吹奏楽部”は女の園だったので当時の私ではいささかハードルが高い。と、なると科学部しか残されていないのだが、どうやら“オタクの園”らしいという噂が…。当時すでに隠れアニオタだった私としては(アニメージュを小学5年生の時から購読)問題ないのだが、人の目を気にしてしまい断念。そうなると後は運動系しか残されていないわけで、選択肢としては“軟式テニス”“野球”“陸上”“剣道”の4つ。私は自慢ではないが、ボール扱わしたら右に出る者がいないほど下手(これはボール=自分自身の男性としての大切な丸い物体にたいするメタファー、として無意識下で捉えてしまうため、苦手意識を持ってしまうのが影響しているから…かもしれない)だ。なので“軟式テニス”“野球”はなし。そして、私は走るのも本当に嫌いだった(マラソン大会のたびに仮病使ってサボっていた)。と、なると、もう残っているのは“剣道”しかない。そして、私は意外と「時代劇」が好きだった。と、まぁ、いろいろあって“剣道部”に入部することになる。そのあとの地獄を知っていれば絶対入らなかったであろう“剣道部”に。 #   ★ 0
1co 場所:一番近いコンビニまで車で30分
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1991年 5月 - 12歳
保育園児時代でのスイーツ依存症(おもにグリコ)の結果、小学生にして総入れ歯とう十字架を背負っていた私も小学校を卒業する頃には永久歯が生えてきて“総入れ歯”の十字架は降ろすことができた(部分的にはまだ入れ歯だったけれど)。だがしかし、そんな私に次なる試練が訪れる。長い総入れ歯生活、正直にいって小学生にして入れ歯はかなり面倒くさく、私はよく入れ歯をするのサボっていた(よく舌を使って入れ歯を外し、口の中で回していた。まぁ、そのおかげで舌使いのレベルは比較的高レベルに達することができたような気がしないでもないが…)。そのためにアゴが縮まってしまい、どうやっても全部の歯が生えそろわなくなってしまったのだ。結果何本かの永久歯を間引くことになり、さらには歯科衛生士の「お子さんのためを考えたら、歯の矯正を考えられた方が良いかもしれません、少し出っ歯気味ですし…」という口車に乗せられた母ナオコによって歯の矯正を受けることになった。私と歯医者との戦い、第二ラウンドの幕明けである。 #   ★ 0
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1991年 4月 - 12歳
中学に入って最初の危機は身体測定だった。理由はパンツ。「自分の下着姿を他の男の子の前で晒すなんて…恥ずかしい」と言うような乙女チックな理由…ではなく、「やばい…おれ、ブリーフしかもってない!」という理由で。だって、小学生まではブリーフだった同級生が、こぞってトランクス派に転向していたんですもん。その情報を身体測定前日に聞いた私は悩んだ。これから母ナオコに頼んだとしても、さすがに前日では無理だ。相談するのだって恥ずかしいので、できるなら自分1人で解決したい、と考えた私はならば!と言う事で父のトランクスを拝借することにした。柄は鯛柄で「大漁!」と書かれたトランクス。翌日からしばらくあだ名が「ガラパン」になった。 #   ★ 0
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1991年 4月 - 12歳
宗像市立城山中学校、入学 #   ★ 0
hbkr 場所:福岡
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1991年 3月 - 12歳
春から中学生なので、制服を買ってもらう。通う中学は学ランとセーラー服。もちろん学ランを購入。この時「あぁ、自分は変なんだ…」と確信する。なぜなら、断然セーラーの方を着たかったから。 #   ★ 0
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1991年 3月 - 12歳
小学校を卒業する。思い返せば、なにかと楽し…くはないな。やはりイジメのダメージは大きいし。ただ、まだ「男女」について、はっきりと意識していないので、その点では穏やかな生活だったのかもしれない(ミニ四駆作ったり、ガンプラ作ったり、と、まだまだ他の男の子との差も少なかったから。まぁ、ぬいぐるみを集めたりはしていたけれど)。その後に待っていた悶々とする日々に比べたら。 #   ★ 0
1co 場所:一番近いコンビニまで車で30分
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1991年 1月 - 11歳
年を越して、また一つ年をとる。小学生でいるのもあと少し。この頃になると、イジメに対してはそんなに心が動かなくなった。それよりも日に日に自分は“ヘンタイ”なのではないだろうか、という悩みの方がどんどん大きくなっていった。 #   ★ 0
1co 場所:一番近いコンビニまで車で30分
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1990年 12月 - 11歳
イジメの対象が私になった。回覧板みたいな感じで回ってくる。イジメっこが私のランドセルの中から母が私に秘密で入れていた小箱を見つけられ、その場で開けられる。中にはイジメに気がついていた母が私に向けた「がんばれ!がんばれ!負けるな!…」と言う励ましのメッセージ。それを音読される。素直になれないお年頃だったから家に帰り母にあたる。親の心、子知らず。今だったら…。人の想いは届くまでにずいぶんと時間がかかる場合もあるのだな、と思う。また、時間がかかってもきちんと届く場合があるのだな、とも思う。 #   ★ 0
1co 場所:一番近いコンビニまで車で30分
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1990年 11月 - 11歳
水面下で繰り広げられるイジメの影響で、だんだんと人の顔色を伺う性格になり、わざとお調子者を演じるようになり、自分をあまり出さないようになり始める。性格的にはかなり卑屈。また、この頃から、もやもやとした違和感を感じるようになる。それがはっきりとしてくるのはもう少し後になってから。やっかいな皮膚病は…さらに悪化。 #   ★ 0
1co 場所:一番近いコンビニまで車で30分
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